SNSでバズっても、なぜ心は満たされないのか?
こんにちは、えらせんです。
Instagramで毎日投稿して、
保存数を見て、インサイトを眺めて、
反応が良かった日は少し嬉しくて、
伸びない日は、自分の価値まで下がった気がする。
…そんな日々を何年も送ってきました。
気づけば、
SNSでの「反応」が
僕の感情を左右するリモコンみたいになってた。
・バズった → 今日の自分、好き
・伸びなかった → 俺、なにしてんだろう
でも、あるときふと気づいたんです。
「数字が伸びても、心が満たされないままなのって、なんでだろう?」
その問いの先にあったのは、
SNSという舞台に組み込まれた“構造”そのものでした。
バズっても、自分の「穴」が埋まらない理由
発信者であれば、
誰もが一度は“バズる快感”を味わったことがあると思う。
保存数、シェア数、インプレッション。
数字が跳ね上がって、フォロワーが一気に増える。
たしかに気持ちいい。
アドレナリンも出るし、
「よし、やったぞ」って一瞬だけ満たされる。
でも、そのあとに来るのは、
なんとも言えない“空虚感”。
「次は、もっと反応取れるやつ出さなきゃ」
「今度はこれでバズらなかったら、もう終わりだ」
「フォロワー減ってる…やばい…」
いつのまにか、
「人の反応で自分の価値を測るゲーム」から
抜けられなくなってる。
それが、“数字で自分を測る地獄”。
SNSに潜む「承認の麻薬」と“依存の構造”
SNSは、自己表現の場でもあるけど、
承認のカジノでもある。
どれだけ役立つ投稿をしても、
心を込めて書いても、
“バズるかどうか”で全ての価値が決まるような世界。
この構造は、
一言でいうと、
“報酬系”の設計に脳がハックされている状態です。
・反応がもらえる → ドーパミンが出る
・反応が少ない → 禁断症状のように不安になる
つまりSNSって、
フォロワー数や反応数が“通貨”になってる世界なんです。
そこで「生きている」と、
発信=投資、数字=報酬 みたいな構造にハマっていく。
なぜ「バズる=幸福」にならないのか?
ここが本質。
バズることって、あくまで
「他人からの評価の最大化」にすぎない。
でも人間って、
“他人に評価される”ことと、“自分を認められる”ことは違う。
むしろ、
評価されればされるほど、
「次も認められないと消える」という不安に襲われる。
僕も何度も経験しました。
・自分の投稿が「商品」になっていく感じ
・いつも“次の数字”に追われるプレッシャー
・素直に書いた投稿ほど、反応が薄くて傷つく
そのうち、
“自分らしい投稿”ができなくなっていく。
僕が“反応を捨てる投稿”を始めた理由
あるとき、ふと思ったんです。
「このままだと、数字の奴隷になって終わるな」
だから僕は、
意図的に「反応が出なさそうな投稿」も混ぜるようにした。
・誰か1人のためだけに書いた言葉
・保存よりも“心に引っかかる”ことを優先した構成
・バズらなくても、伝えたかった真実だけを書く
結果的に、
フォロワーは一時的に減ることもあった。
でも、
「数字じゃなく、体温で繋がれる人」が増えた。
それは、
“量”ではなく“質”の出会いだった。
SNSとどう向き合うか?えらせん的・発信の3つの軸
僕がいま大事にしてるのは、以下の3つの視点です。
① 数字を“指標”にしても、“判断基準”にはしない
数字を見ること自体が悪いんじゃない。
でもそれが「良い・悪い」を決める物差しになると、心が壊れる。
指標にするけど、心の主導権は渡さない。
② 発信の“内的動機”を見失わない
誰かの心に火を灯したい。
昔の自分を救うような言葉を書きたい。
この“自分の火種”を忘れないこと。
それがあれば、ブレずに進める。
③ “成果”ではなく、“関係性”に喜びを置く
フォロワーが増えるよりも、
「この人と繋がれてよかった」と思える出会いの方が、
長く、深く、あたたかい。
数字が消えても、関係は残る。
最後に|あなたにとって、「バズる」とは何ですか?
ここまで読んでくれたあなたへ。
最後に、ひとつだけ問いを残します。
あなたは、“何のために”発信していますか?
・フォロワーを増やすため?
・売上を伸ばすため?
・自己表現のため?
・誰かの背中を押すため?
どれも正解です。
でも、それが「自分の答え」であるかどうかが、すごく大事です。
SNSは、素晴らしい道具です。
でもその中に、自分の“心の居場所”まで預けてしまわないでください。
では、また続きを書きます。
えらせん